Florenceの魅力を考えてみる。

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Florenceをプレイしました。「プレイした」というより「読んだ」「見た」「体験した」という方が適切かもしれません。Florenceという体験は、いったい何だったんだろうか。そんな感想でした。

『Florence』は、若い女性の初恋をテーマに、出会いのときめきや、胸が痛む落ち込みを伝える、インタラクティブ・ストーリーブックです。

Florenceは、お話をなぞっていくアドベンチャーゲーム。分岐やゲームオーバーはなく、一本のストーリーを追っていく。その中で、ごくごく単純なプレイヤー側の操作が要求される。ゲームというよりも、「ストーリーブック」と形容されているのがまさにしっくりくる。

Florenceでは、プレイヤーは始めフローレンス自身のようであるが、あくまで第三者として振る舞う。クリシュというボーイフレンド視点の操作があるし、時間そのものを進める操作は神、狂言回しと言ってもいいかもしれない。とにかくFlorenceをプレイする「私」は、物語に登場する誰かではない。

Florenceの導入はこうだ。
朝起きて、会社に向かい、SNSに支配され、眠りにつく、どうしようもない毎日。その繰り返しの中である日、フローレンスは新たな出会いをする……。SNS時代と呼ばれて久しい現代を抉った導入で、まるで自分のことのようだと感じる人が多そうだ。ただ、これ自体は特に目新しい切り口とも思えない。

物語は、プレイヤーの行動によって進む。ボタンをタップするだけのこともあれば、スクロールが必要だったり、簡単なジグソーパズルをいくつも組み立てるものなど、単純ながらも場面によってルールはちぐはぐだ。

ここにFlorenceの仕掛けが一つある。
常に異なるルールを求められるプレイヤーは、そのたびに自分が何をすればよいのか立ち止まり、考えなければならない。そして、「なぜこれをしなければいけないのか」を考えるスキマが生まれる。
例えば、一連のプレイの中でも印象的な、クリシュとの会話シーン。

彼の言葉(もといフキダシ)に対して、デコボコが合うようにフキダシで返していく。プレイヤーがやるべきは、ただのジグソーパズルだ。そしてプレイヤーは、下記のような応答を自分の中で繰り返す。

Q.なぜジグソーパズルをしなければいけないのか?
A.クリシュとの会話を成立させるため

Q.なぜどんどんパズルが簡単になっていくのか?
A.スムーズに会話がつながる=二人の関係が進展してきたため

彼らが何を話しているのか、我々にはわからない。おいしいパン屋の話をしているのかもしれないし、仕事の愚痴をこぼしているのかも、最近聞いたバンドの話をしているのかもしれない。

プレイヤーはここにそれぞれ、想像を強制される。想像の源となるのは自分の体験だ。好きな人とどんなことを話そうか、緊張してうまく話せない、だんだんキャッチボールが続くようになってきたときのわくわくする気持ち、そういったものを思い出すことになる。言語でなくゲームデザインの体験を通じて、プレイヤー一人一人異なるキャラクター像を構築していくように仕向けられているのだ。そしてそのプレイヤー像とは、往々にして自分自身であり、当時好きだった誰かである。

彼らの関係がどういう経路を経て進展していったかについては、われわれに想像の余地が残されており、同時にわれわれはそれを想像せざるを得ない。その過程でプレイヤーはフローレンスと同化し、まるで自分の経験であるかのように錯覚していく。触れば痛いくらいの、当時の生々しいむき出しの感情が呼び起され、揺さぶられ、最後にはまた心の奥へとそっとしまわれていく。多分これは、ふとした時に卒業アルバムを眺めたりとか、同窓会で昔好きだった人に出会ったりとか、そういうときにおこるのと同じ感情のフローだろう。

そしてその錯覚を呼び起こす引力の強さが、Florenceの魅力なのだと思う。

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